フェイク・ラブ 第四章〜Iori〜<第39話>
<38回目>
「こちらこそ。あ、俺も一緒に下行くよ。コンビニ行くから」
女の子と並んで外を歩くことを嫌がるお客さんは多いけれど、この人は気にしないらしい。恋人同士みたいに、でも恋人同士よりは距離を取って適当な話をしながら歩き、エレベーターに乗る。
腕時計をチラ見して時間を確認する。まだ22時を回ったばかり。出勤してすぐ仕事ついたから、朝まであと1本、うまくいけば2本はつけるかもしれない。
最低だな、あたし。
さっきまでは野々花に心底謝りたい気分だったのに、今は今日手にする金のことばっかり考えている。
「きれいなマンションですよねー、中も広いし」
「うん。でもね、家賃安いんだよー。駅まで徒歩20分もかかるからかな」
「遠っ。あたしには無理―」
恋人同士と誤解されても仕方ないほどの親密さでエントランスを出る。視界の端に若い男の人が移り、すれ違ったのには気づいていた。
顔までは見なかった。
「伊織ちゃん!?」
振り向かなきゃよかったのに、振り向いてしまっていた。
見開いた目とぶつかって、心臓がばくんと揺れ、固まる。
いつもの革ジャンにブラックジーンズ。今朝別れた格好と同じ佳輝くんが、そこにいた。
そういえば、住んでるのこの近くだって言ってたっけ。
きれいでまぁまぁ広いマンションだけど、駅から遠すぎて通勤に自転車を使っているということも。
驚いて固まった目があたしと、あたしの隣にいる名前も忘れてしまったそいつとを、交互に見る。
やがて驚きの目が悲しそうに縮む。そこに軽蔑はなく、憐れみのような感情が浮かんでいた。そのことが固まったあたしの心臓に決定的な一撃を加えた。
「伊織ちゃ……」
呼ばれかけた名前を遮るように自動ドアの方向を見る。速足で歩き出すと何事もなかったみたいにすうとドアが開く。
冷たい冬の空気の中、お客さんが駆け寄ってくる。
「え、何? 今の彼氏?」
「違う」
「でも、知ってる人だよね?」
「大丈夫……。もう、会うことないから」
今言った言葉を自分で噛みしめて、鼻の奥がつんと痺れた。ふーん、とお客さんはちょっと安心したように、でもあまり興味なさそうに言った。
「本名、伊織って言うんだぁ。なんか、イメージと違うよね。晶子のほうがいいのにぃ」
「そーぉ?」
晶子の甘い声で答える。伊織なんて名前捨ててしまいたい。永遠に晶子でいたい。晶子のままで、野々花の母親であることも佳輝くんとの関係も全部なかったことになればいい。
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