トーキョー’90クロニクル vol.4 「18歳になったらコギャルは引退、20歳になったらもうオバサン」

2014-05-01 16:00 配信 / 閲覧回数 : 1,354 / 提供 : 大泉りか / タグ : 90年代 コギャル 女子高生 東京


 

1994年、コギャルの鞄の中には「写ルンです」が入っていた

 

同じ学区の高校に通う、ひとつ年上のHIROMIXが”女子高生カメラマン”として活躍していたあの頃。

 

カメラ機能のついた携帯電話もなければ、デジタルカメラも普及していなかった1994年、わたしたちの鞄にもまた、レンズ付きフィルム『写ルンです』と、お気に入りの写真を差し込んだミニアルバムとが必ず入っていました。

 

それらを持ち歩いていた理由は二つ。

 

ひとつには、ストリートで知り合った同じ年の女子高生たちと見せ合って、自分たちの『イケてる具合』を共有し、『同じ種類の仲間(=コギャル)』であることを認識し合うため。

 

そしてもうひとつは、たった3年しかない『女子高生時代』、その思い出を目に見える形で残していたいという思いからでした。

 

そう、わたしたちは、この時代があっという間に過ぎてしまうことを知っていたのです。

 

いくらコギャルだなんだと騒がれても、それは高校の三年間だけ。

 

上の世代の「暴走族は18歳になると卒業する」という古い慣習の名残に、わたしたちはうっすらと覆われていて「18歳になったらコギャルは引退、20歳になったらもうオバサン」と本気で信じ込んでいたのです。

 

そんなわたしたちの”青春”を撮り溜めるための『写ルンです』は27枚撮り。フィルム1枚当たりの値段と、現像にかかる基本料を考えると39枚撮りのほうが断然に安い。

 

それなのにあえて、27枚撮りを使っていたのは、「撮った写真をすぐに見たい。39枚も撮るまで待っていられない」というわたしたちのこらえ性のなさ。しかし3年間は驚くほどに短いのです。39回、シャッターを押す間に、思い出がどんどん劣化してしまう。

 

この27枚撮り『写ルンです』でもって、校舎の棟をつなぐ野外の渡り廊下で日焼けしながらお弁当を食べているところや、休日の日中にクラブを貸し切って行われる学生パーティーで、口に煙草サイズのルミカライトを咥えて踊っている姿や、湘南の海辺で親指と小指を立てて前へと突き出す変形ハングルースでポーズを取る水着姿の『わたしたち』をせっせと写し撮っていたのです。

 

女子会

 

エロ本に自分の性を切り売りしていたあの頃

 

しかし、ある時のことでした。どういう経由であったかはさっぱり思い出せないのですが、女子高生をフィーチャーしたエロ本の編集者の男性と知り合いになる機会がありました。

 

おそらくは、「雑誌に出れる子を探している」と、道端で声を掛けられたか、他校の知り合いを通じて紹介されたのどちらかだと思うのですが、その編集者氏に誌面に出てくれないか、と頼まれたのです。

 

ストリート誌やファッション誌ならふたつ返事でオッケーですが、しかし媒体はエロ本です。となると、メリットとデメリットを考えることになります。エロ本に載ることのデメリットは、というと学校や親にバレたら怒られる(かもしれない)、同級生にバレたら軽蔑される(かもしれない)。

 

対してメリットといえば、雑誌に出ることで、自己顕示欲が満足する、謝礼(お金)が貰える、なんだか刺激があって面白い気がする。わたしは当時から、出版社に勤める父親の影響もあり、将来はマスコミで働きたい、という夢をボンヤリとも抱いてもいました。

 

だから、『雑誌』というものに、どんな形であれ、関わってみたいという気持ちもあった……というわけで、わたしは後者の選択を取ったのでした。

 

しかし、女子高生をテーマとしたエロ雑誌の撮影といっても、鞄の中身や制服の着こなしなど、「いま、女子高生の間では、これが流行っている!」という私生活紹介のコーナーで、特にいやらしいポーズなどを取らされることはありませんでした。

 

それでも全体としては女性のヌードもあるエロ雑誌なので、発売になった当初は、両親や学校にバレやしないかとドキドキしていたのですが、あっけないほどに何事もなく日が経ち、やがてコンビニのラックからも失くなってしまったのを見て、誰にもバレずにやり過ごしたことを知ったのでした。

 

さて、その編集者から次に頼まれたのは、『写真』でした。『写ルンです』をひとつ、わたしに渡すから、学校での日常風景を撮ってきてくれ、というのです。

 

ロッカーの中、お弁当の中身、体操服や水着、落書きした上履きや友達とのスナップショット。出来るだけ、プライベートな学校生活がわかるものが欲しい、というのです。

 

写真ならばいつでも撮っている。撮り慣れている。だから、別になんでもない。

 

そう思う一方で、なんとなく心の奥にモヤッとするものがありました。わざわざアルバムを作ってまで、皆に見せたかった『イケているわたしたちの世界』。

 

それを、わざわざお金を払ってまで見たいと思ってくれる人がいるということは嬉しいはずです。が、それが大人の男性であり、そこに性的な視線が絡むということへの、何とも言えない嫌悪感。その一方で、男性に欲情されるという喜び。わたしには『価値』がある。

 

そう、自らを『価値』があると思わせてくれる優越感の前では、性的嫌悪感などはごく小さな問題でした。

 

ただの私生活のスナップショット。わたしの身体の一ミリも、何か減るわけではない。

 

こうして、わたしはカメラで自分と身の回りを撮り、27枚のフィルムをすべて使い切ると、そのまま編集者に手渡しました。こうして、わたしは、自分の性を切り売りすることで、『価値』を認めてもらうことを、知ったのです。

 

 

 

 




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