Kaya〜風俗嬢の恋 vol.5〜<第16話>
<第16回目>
石坂さんにはあまり似合わない、花模様の可愛いマグカップがデスクの端にあって、コーヒーの液体はクリームをたっぷり含んで茶色く濁っていた。それを素早く取って、カップごと投げつける。
雨の路地でトラックが跳ねさせた泥水を頭から浴びたようになっている石坂さんが、顔を醜く引きつらせて怒鳴った。
その醜い姿に、何もかも自分が悪いと思っていたあたしが、急に馬鹿らしくなった。
「何するのよ!!」
「失礼しました。手がすべったもので」
驚くほど冷たく、嫌味っぽく言えた。
石坂さんが目を限界まで見開いて、それから顔を真っ赤にして怒鳴る。
「明日からもう来なくていいわ!!」
「そうします」
「……言っとくけどねぇ、うちがダメならどこの会社でも無理よ。あんたみたいなトロいの、どこでだってやってけないわ。さっさと風俗に戻りなさいよ」
「そうさせていただきます」
唇だけで笑って見せると、石坂さんは怒りを引っ込めて薄く口を開け、驚くのと恐れと混ざった顔をした。
その瞬間、勝った、と思った。
いい人の仮面を投げ出すこと、本性をさらけ出すこと、そして裸の自分でひとに勝つこと。
それはなんて気持ちいいんだろう。
「辞表出す必要、ありませんよね?」
荷物をまとめて一礼して、オフィスを出た。石坂さんは泥水みたいなコーヒーをかぶったまま、呆然としてデスクに座っていた。
午後のオフィス街は閑散としていて、遊歩道には茶色いしましま模様の猫が寝転んで欠伸をし、九月の白くすっきりした太陽がポプラの葉を透かしていた。
時折すれ違う人たちはみんな忙しそうで、せかせかと脚を動かしている。
そのまっすぐな背中には、責任感とか大人の義務とか、あたしには背負いきれないものがしっかり乗っかっていて、誰もがその重さをものともせずに、迷わず目的地を目指す。
そんな人たちに囲まれて歩いていると、最初は軽やかだったあたしの足どりも、どんどん鈍くなる。
勝利感を味わったのはほんの一瞬で、すぐに泣きたい気分になっていた。
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