泡のように消えていく…第三章~Amane~<第20話>
<第20回>
頬がかゆくて手をやったら、目の前を大きな蠅がぶうんと通り過ぎて行った。
その向こうに無数の足が見える。ハイヒールを履いたすらっと長くて白い足、スーツのズボンに包まれた革靴の足、ジーンズにスニーカーの足。電柱の下に寝転がっていることを確認し、だるくてまた目を閉じる。
ここがどこの路上でも、あれから何が起こったとしても、道行く人たちに白い目で見られていても、どうでもよかった。
とにかくもう少し、寝たい。
「もしもし。あなた、大丈夫?」
夢うつつの状態に戻りかけたところを、誰かの声と肩を叩く手に引き止められる。眼鏡をかけたおばあさんの心配そうな顔が目に入った。
ほっといてくれていいのに、すみれ並みにお節介な人だ。大丈夫です、と細い声で言って体を起こす。途端に吐き気がこみ上げてくる。
うっと口を押えると、おばあさんがまた心配そうに近寄ってくるので、それを振り切るように渾身の力で立ち上がった。ショルダーバッグがちゃんと肩からぶら下がっているのが奇跡みたいだ。
すぐ傍の道でタクシーを拾い、終始吐き気と戦い続けて運転手から迷惑そうな視線をよこされながら、15分ほどで家についた。約2000円の無駄な出費。
アパートの階段を上ろうとするけれど、車に揺られたせいで吐き気が増幅され、力尽きてしまう。
あとちょっと、もうちょっと、部屋は2階なんだからこの階段を上ったらすぐ、だ。
強引に自分を奮い立たせ、体を起こして手すりを握った。階段に足をかける、ふらつく、膝を折る。また手すりに手を伸ばす。そんなことを何度か繰り返した後、カンカンカン、と速足で階段を下りる音がする。
顔を上げるとパーカーにスエットパンツ姿の飛鳥があたしを見下ろしていた。
「なんでいるの」
「なんでって。お前、昨夜何度も俺に電話したじゃん。覚えてねーの? 6回もかかってきたぞ」
「全然」
飛鳥はふう、と短いため息をついて一気に残りの階段を駆け下りた。
飛鳥は元カレで、2番目に働いたソープの店でボーイをやっていた男だ。歳は2コ下の24歳。もともととび職で、付き合ったことを機にあたしは店を替え、飛鳥はとびに戻っている。
一度は道を踏み外してその後ちゃんと昼の世界に戻っていけたんだから、大したものだ。あたしは昼の仕事になんて一生縁がないかもしれない。
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