フェイク・ラブ 第二章〜Nanako〜<第28話>
<28回目>
ドアに書かれた『霊安室』の文字はあんまり現実味がなく、母親が死んだという電話の知らせと同じように情報だけが素通りしていく。言葉だけは心に落ちているけれど、それがどういうことなのか、飲み込めずにいる。
けれども、『霊安室』の『霊』という字は、ついさっきまで生きて動いていた人間が息を止め、途端に別の存在になったことを示していて、それだけで衝撃的過ぎて、何にも考えられなかった。
いや、何にも考えられないのは電話を取ったあの時からだ。上司にどう伝えてどんなふうに会社を出てどこをどう歩いてどの電車に乗りどうやってここへ来たんだろう?
意志を失った体はふわふわと頼りなく、歩みを進めても床の感触がない。
「文子ちゃん……」
母親の従姉妹で昔から仲が良かったのだという小柄なおばさんは、あたしと一緒に部屋に入るなり息を詰まらせた。そして、母親の名前を呆けたように呼んで、おそるおそるといった手つきで顔にかけられた布をめくった。
白く安らかな顔に、8つの目が注がれる。あたし、従姉妹のおばさん、母親と一緒に住んでいた老いた祖母と母親の姉にあたる伯母さん。
お酒と睡眠薬を同時に飲んだことによる自殺、そんなまがまがしい死に方にはまったく相応しくない、あたしたちの救いになりそうなきれいな死に顔だった。
ウイスキーを瓶から直接口に注ぎながら狂った笑いを浮かべていた母親、父親が帰ってくるなり、どうしてわたしじゃダメなのと泣きながら腰にすがり、あたしの見ている前でやめろと突き飛ばされていた母親。
生きていた時はこんなに安らかな顔を見たことなかったのだと気づいて、理解した。
お母さんはとうの昔に死んでいたんだ。こうすることがお母さんにとって安らぎを得られる唯一の方法で、唯一の正しい道だったんだと。
「ごめんなぁ、奈々子ちゃん」
久しぶりに会う祖母が弱弱しい声でごめんねを繰り返す。もう80歳を超えたんだっけ。シミだらけでしわくちゃの顔をもっとしわくちゃにして、祖母はぼろぼろ泣く。
「ばあちゃんが、いけなかったんだ。ばあちゃんが、文子をひとりにするから……」
「ばあちゃんのせいじゃないよ」
伯母さんと母親の従姉妹も泣きだした。祖母の涙で堰を切ったようにふたりがぐずぐず泣き出す。あたしだけが泣いていない。
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